キリン社会保険労務士事務所 コラム

陽平コラム⑨  サッカー偉人伝.2

政治家や革命家、音楽家、文学者または独裁者など、世の中には様々な種類の人たちの銅像があります。
銅像を建てられるというのはどんな気持ちがするのでしょうか。
誇り高い気分になるのでしょうか、それとも気恥ずかしい気持ちになるのでしょうか。
強烈なシュートで相手ゴールキーパーを震え上がらせたガブリエル・オマール・バティストゥータなら、その気持ちが分かるかもしれません。
故国アルゼンチンでプロサッカー選手になったバティストーゥタは、遠い異国の地イタリアのフィレンツェで英雄として銅像になりました。

本人よりも有名なゴール名

90年代を代表するゴールハンターであるバティストゥータの特徴は、何と言ってもそのパワフルで豪快なプレースタイルにあります。
その右足から放たれるシュートは、尋常ではないスピードがあり、そのボールは本当にサッカーボールかという位の重さがあったそうです。
あそこまでいくとサッカーボールも立派な凶器です。
速く低い弾道のフリーキックも得意でしたが、壁となる相手選手は完全に腰が引けていました。
「これって完全に罰ゲームだよな」などという会話がなされていたかもしれません。
バティストゥータが決めたゴールは「バティゴール」と呼ばれました。
選手ではなくてそのシュートやゴールにあだ名が付いてしまうという話は他に聞いたことがありません。

どんなときでもゴールを目指すその意欲でも他の選手とは違っていました。
長い髪を振り乱して、ゴールへ突進する姿はまさに重戦車の様でした。
特別に器用な選手ではありませんでしたが、ゴールを決めると言うよりは、ねじ込むと言った感じで得点を量産していました。
セリエAの94/95シーズンには、開幕試合から11試合連続ゴールというとんでもない記録を打ち立てました。
そのシーズンは32試合に出場し26ゴールを決め、セリエAの得点王に輝きました。

ゴールのために遮二無二にプレーする一方で、ときおり浮かべる寂しげな瞳が記憶に残ります。
キャプテンとしてチームを牽引してはいましたが、いつも一人ぼっちといった哀愁がありました。
所属チームの問題が大きかったのでしょうか。
所属するフィオレンティーナはイタリアのセリエAでは中堅程度の規模のクラブチームでした。
バティストゥータとルイ・コスタ(当時のポルトガル代表の中心選手で名パサー)というホットラインがあったため、攻撃に関してはリーグでもトップレベルでしたが、如何せん守備がお粗末でした。
シーズン前の順位予想ではダークホース扱いで、シーズンが始まると優勝争いからは早々に脱落ということが毎年のように繰り返されました。

所属するチームで獲得したタイトルは選手にとっては何よりの勲章ですし、サッカー人生が終わってもついて回ります。
バティストゥータ程の選手なら、何かタイトルを獲りたいと思うのは自然なことです。
一番の近道は強豪チームへ移籍して、選りすぐりの優秀なチームメイトと優勝を目指すという方法です。
実際この人のもとにはビッグクラブから数多くの魅力的なオファーが届きました。
それでもバティストゥータは愛するフィオレンティーナでそれを成し遂げようと、チームに留まり続けました(9シーズン在籍)。
サポータもそんな彼をチームの町の英雄として称え、ホームスタジアムの一画に仁王立ちする銅像を建てました。

愛情は怒りへ

バティストゥータはフィオレンティーナで選手生活を全うし、今でも町の英雄です。
であれば「めでたしめでたし」で終わるのですが、実際はそう綺麗には纏まりませんでした。
リーグ優勝という長年の夢を叶えるため、00年に優勝の有力候補であるASローマへ移籍しました。
収まりがつかないのは、熱狂的なことで知られるフィオレンティーナのファンたちです。
銅像は怒ったファンたちにより破壊されました。
バティストゥータを愛すればこそ許せなかったのでしょう。

そのシーズン、多くの大型補強を敢行した(中田英寿もいました)ASローマは、リーグ優勝を成し遂げました。
バティストゥータの悲願は叶えられたのです。
一方、フィオレンティーナは下位を低迷した後、数年後に財政破綻でセリエC(セリエAの2つ下のリーグ)に降格させられました。
一時は一体だったバティストゥータとフィオレンティーナは対照的な軌跡を描きました。
優勝という夢を叶えたバティストゥータは幸せな気持ちで選手生活を全うしたのでしょうか。
私にはその瞳が悲しみを湛えたままの様に見えました。

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