キリン社会保険労務士事務所 コラム

超短編シリーズ⑪「将棋車両」

毎月第2・第4水曜日の朝8時16分荻窪駅始発の丸の内線第5車両は「将棋車両」と僕らアマチュア将棋ファンは呼んでいる。
今までにマスコミにも何度か取り上げられているのでご存知の方もいるだろう。
僕は大抵、荻窪駅を8時前後に出発する電車に乗っているのだけれど、この第2・第4水曜日だけは30分以上も前から、この8時16分始発の第5車両に座るために根気強く並んでいる。
いつもの朝なら、1本見送れば楽々と座れるが、この日の第5車両は将棋ファンで混み合うので、長時間待たなければ座れないのだ。

「将棋車両」と呼ばれるのには、もちろん訳がある。
もうかなり前の話になるけれど、この電車に偶然、アマチュア将棋界の大御所が二人が乗り合わせた。彼らは大河内勘輔と、もう一方は半田重蔵と言い、アマチュア将棋界では、知らない者がいないと言われるほど、ライバル同士として有名なお方たちで、また、当時は両者とも、一部上場の大企業の重役だった。
普段は重役専用の黒塗り自動車で通勤する彼らだが、この日に限って偶然二人とも電車で通勤していた。
彼らは同じ電車の同じ車両に乗り込むと、丁度向かい合うように席についた。
二人ともすぐに、ライバルが目の前に座っていることに気付いた。
しばらくの間、お互いちらちらと相手を見ていたが、大河内氏はおもむろに半田氏に向かって「2六歩」と叫んだ。
半田氏は先手を取られたことに一瞬かっとなったが、すぐに「8四歩」と応じた。
車内では、一体何が始まったのか騒然となったが、その時間髪を入れずに誰かが叫んだ「対決しとる。名人同士が対決しとるんじゃ」。
緊張が走った。
電車はまだ、「新高円寺」駅を過ぎたばかり。

「2五歩」と大河内氏が叫ぶと半田氏も負けじと「8五歩」と叫ぶ。
眠気の覚めない朝の丸の内線の第5車両では、今まさにアマチュア将棋界の二人の巨人が、言葉による壮絶な将棋を繰り広げ始めていた。
この朝、この車両に乗り合わせた人が本当に羨ましい。
偶然乗合わした将棋ファンの多くが、その壮絶な戦いを目の当たりにして、自分の降りるべき駅でも降りられなかったと後に告白している。
この時の戦いは、この車両に偶然乗り合わせていた将棋会館事務局員が偶然書き留めていてくれたおかげで、僕らも知る事ができる。

さて、これがきっかけとなり、この二人は単なる将棋のライバルから急激に友好を深めることになる。
いつしか二人は上場企業の重役から同時期に非常勤の役員となり、会社へは月に2回程度行けばいいという身分になった。
そこで、二人は話し合った。「俺は毎月第2、第4水曜日に会社に行くことにするけれど、お前はどうだ。もし合わせられるなら同じ日の同じ電車で将棋をしながら通勤するっていうのはどうだ」どっちがどっちに持ちかけた話か分からないけれど、やっぱりご当人達も、あの車内「叫び」将棋は相当エキサイトして楽しかったようだ。
持ちかけられた方も二つ返事で承諾した。
そうして、この対決が復活したのが平成13年の8月8日。
事前お知らせもなく、荻窪駅朝8時16分始発の第5車両の進行方向に向かって右一番奥に座った大河内氏が、またも先手となり「5六歩」と突然叫んだ。
半田氏は進行方向に向かって左一番手前に座っていたので、大河内氏から見ると、ほとんど対角線上に位置していた。
ようするに大きな声で叫ばなければ相手に聞こえないほどに、お互いがわざわざ離れて座っていた。
半田氏が叫んだ「3四歩」。
車内迷惑電話も裸足で逃げ出す、この大胆不敵さ。
こうして、久しぶりの対戦も大いに盛り上がり、大成功に終わった。
この日以来第2、第4水曜日の8時16分始発の第5車両は「叫び」将棋の対戦の場となった。

この第5車両はいつしか「将棋車両」と呼ばれるようになり、毎回、老若男女を問わず熱心な将棋ファンが大勢押し寄せるようになった。
この8月で「車内叫び将棋」も丸一年。
7月24日の第4水曜日は一周年記念ということと、夏休みということもあり、親子連れの将棋ファンも多く、内容的にも近年稀に見る秀逸な戦いだった。
一手毎にため息や、「妙手!」と叫ぶ声、感嘆の声、拍手など和気あいあいの中、丸の内線は走っていった。
僕は後ろ髪を引かれる思いで赤坂見附の駅で降りた。
いつも途中下車なので、勝敗結果は分からないんだけど、この「将棋車両」は本当に不思議な空間で、やっぱりやめられない。

超短編シリーズはフィクションです。念のため

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